大阪地方裁判所 平成7年(行ウ)77号 判決 1998年5月27日
原告
今村久美子
右訴訟代理人弁護士
吉岡良治
同
岩永惠子
被告
岸和田労働基準監督署長難波正道
右訴訟代理人弁護士
上原理子
右指定代理人
高橋伸幸
同
岡田和信
同
佐藤清
同
奥村倫明
同
愛甲唯喜
同
池宮義博
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告が原告に対し昭和六〇年二月一三日付けでした労働者災害補償保険法に基づく休業補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
原告(昭和一三年一一月一四日生まれ)は、昭和四六年九月一三日、医療法人三和会永山病院(以下「永山病院」という。)に、パート看護婦として雇用され、昭和四九年一〇月一日、正規職員(看護婦)として雇用され、昭和五三年四月一日より、看護課婦長として稼働していた(以下「本件業務」という。)。
2 業務災害
原告は、昭和五九年五月二二日午後七時ころ、永山病院婦長室において、高血圧性脳内出血(以下「本件疾病」という。)を発症して意識を失い、翌二三日午前九時ころ発見され、治療を受けたが、右片麻痺、失語症が後遺症として残った。
3 不支給処分
(一) 原告は、本件疾病が、本件業務に起因するとして、被告に対し、昭和五九年七月一九日、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づき、本件疾病を理由とする休業のうち昭和五九年六月二〇日ないし同月二三日の四日間の休業につき、休業補償給付の請求をしたが、被告は、原告に対し、昭和六〇年二月一三日、本件疾病は業務に起因することが明らかな疾病とは認められないとして、右休業補償給付の不支給処分(以下「本件処分」という。)をした。
(二) 原告は、右処分を不服として、大阪労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求をしたが、同審査官は、原告に対し、平成三年九月一八日付けで、審査請求を棄却する旨の決定をした。
(三) 原告は、右決定を不服として、労働保険審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は、原告に対し、平成七年七月一九日付けで、再審査請求を棄却する旨の裁決をし、右裁決は、平成七年八月一八日、原告に送達された。
4 本件業務
(一) 原告は、看護婦として手術の介補等の看護業務に加え、婦長として、看護婦、看護補助者の管理、教育、指導、入院外来部の掌握の業務等、広範な業務に従事していた。
(二) 原告の所定勤務時間は、午前八時三〇分から午後五時までであったが、原告は、現実には、別紙「発症前6か月の時間外等の労働時間の状況(原告及び被告の主張)」<略、以下同じ>の原告主張欄記載のとおり、慢性的に残業を継続していた。
永山病院において、深夜に緊急の手術の予定が入った場合、原告は、本来ならば、婦長として他の看護婦に右手術の介補を担当させることもできたが、緊急のために部下である看護婦に時間外の看護業務を命じるわけにもいかず、原告自らが手術を介補することを余儀なくされ、結局、原告は、深夜まで業務に従事したこともあった。
(三) 原告は、毎月二〇日過ぎころ、勤務時間中には多忙のために処理できないので、日報を自宅に持ち帰り、永山病院の看護婦の勤務状況を点検し、日報を整理した。
(四) 永山病院は、昭和五八年一二月一四日、ベッド数を九八床から一六八床に増床し、昭和五九年四月一八日、さらに二〇六床に増床した。病院が増床するためには、単にベッド数を増加させるだけでは十分ではなく、人的・物的設備を拡充することも必要であるが、永山病院においては、右各増床に伴う看護婦の増員が思うようにいかなかった。
(五) 永山病院は、将来、看護婦としての業務に従事させるつもりで、見習いとして看護学生を看護学校に通学させていたが、そのうちの三名が、昭和五九年四月ころ、右看護学校を卒業して准看護婦の資格を取得した後、他の病院に引き抜かれた。原告は、右看護学生の教育・監督を担当していたことから、右引抜きに落胆し、日ごろの部下の管理及び部下との意思疎通が不十分であったとして永山病院院長永山一郎(以下「永山院長」という。)に叱責され、精神的にショックを受けた。また、この時期に、中堅看護婦数名が、永山病院を退職した。
(六) 前記の看護婦の退職は、永山病院における看護婦の配置異動の時期に重なった。原告は、院長とともに、看護婦の配置異動の調整に携わったが、右調整自体が困難であった上に、原告は、婦長として、右配置異動に伴う苦情に対処しなければならなかった。
5 本件疾病の発症
(一) 原告は、本件疾病発症前日である昭和五九年五月二一日午後四時過ぎころ、院長から、永山病院の日曜日、祭日、時間外における緊急手術時の看護婦の出勤体制が不十分であるとして、指導監督責任を追及され、大声で叱責された。右叱責は、原告の業務が過重であることを全く考慮しないものであったため、原告は、精神的に大きな打撃を受け、帰宅後、夫の今村英男(以下「英男」という。)に対し、退職したいとの気持ちをうち明けたほどであった。
(二) 原告は、昭和五九年五月二一日、看護婦の勤務状況点検のために、日報を持ち帰って自宅で整理した。
(三) 原告は、昭和五九年五月二二日午前八時一九分、永山病院に出勤し、午後一時三〇分から午後五時五〇分ころまで、大野医師執刀、永山院長、医師三名の立会の胆石患者の胆嚢摘除手術につき、他の三人の看護婦とともに介補をした。
(四) 原告は、右患者に対する術後の観察、医師の指示による処置等の申し送り事項等を担当看護婦に伝達した後、午後六時ころ、一階売店付近で、男性の入院患者から、病院の都合で転室を求められたとして、大声で一方的になじられたので、原告は大粒の涙を流した。原告は、午後六時三〇分ころ、売店付近で、店主に対し、「今日しんどくて頭痛がする。」と訴えた。
(五) 原告は、昭和五九年五月二二日午後七時ころ、婦長室に戻ったところ、そのころ、本件疾病が発症した。
(六) 英男は、昭和五九年五月二二日午後一一時五〇分ころ、永山病院に電話して、原告の所在を確かめたところ、詰所にいた看護婦が「帰られたと思う。」と回答した。
(七) 英男は、昭和五九年五月二三日午前〇時五五分ころ、原告の所在を確かめるために再度永山病院に電話をかけたが、電話に出た当直職員は、原告は、タイムカードによれば午後五時〇四分に退出したことになっており、永山病院内にはいないと回答した。後日、右職員は、他人のタイムカード(今村ひとみ)を原告のタイムカードと誤認したものであったことが判明した。
(八) 英男は、昭和五九年五月二三日午前八時四〇分ころ、永山病院内に原告の通勤用の自転車を発見したので、原告が依然として永山病院内に存在することを確信し、午前九時ころ、永山病院事務長永山正己とともに婦長室に赴いたが、その直前に、看護婦が、婦長室内で、本件疾病を発症して意識を失った原告を発見した。
(九) 原告の本件疾病は、脳内の被殻部分から三〇c.c.出血したというものであったが、脳内出血としては、特に重篤ではなく、早期に治療されれば、婦長としての業務に復帰することが十分に可能であった。しかるに、原告に、本件疾病により、右片麻痺、欠(ママ)語症の後遺症が残ったのは、原告が、本件疾病発症(昭和五九年五月二二日午後七時ころ)後、約一四時間経過するまで(翌日午前九時ころ)発見されなかったため、治療が大幅に遅れたことにより、本件疾病が脳内ヘルニアに進行したことが原因である。
(一〇) 原告は、永山病院において、婦長室(個室)を与えられ、そこで婦長としての業務に従事していた。右婦長室は、もともと病室であったものを、机と簡単ないすを置いて、婦長室として代替したもので、ドアにはすりガラスがはめ込まれていた。
原告は、ほとんど毎日のように、午後七時ないし八時ころまで業務に従事したが、永山病院では、終業時刻(午後五時)を経過すると、事務及び病棟の当直員以外は、順次退去することとなり、そうすると、婦長室内で、婦長の身に危険が生じても、外部に連絡を求めることが困難になる。その意味で、婦長室は孤立した部屋である。
6 認定基準
(一) 労働基準法(以下「労基法」という。)・労災保険法には、労働者が、業務上の事由により、傷病に罹患し、又は死亡した場合には、労働者の迅速かつ公正な保護のため、必要な保険給付がされる旨の災害補償制度が規定されている。
災害補償としての保険給付に、業務と傷病の因果関係を必要とすることは当然であるが、災害補償制度は、損害の填補を目的とする損害賠償制度とは異なり、使用者が労働者を自己の支配下に置いて労務を提供させるという労働関係の特質に鑑み、被災労働者とその家族に対し、人間に値する最低限度の生活保障を目的として必要な保険給付をする制度であるから、労災保険法所定の保険給付の要件としての業務起因性とは、損害賠償における相当因果関係よりも広く解すべきで、具体的には、業務と合理的関連性を有することで足りると解すべきである。
この点、被告は、災害補償制度の趣旨を、使用者の無過失責任による損害賠償であることのみを一面的に強調して、災害補償における相当因果関係とは、他に有力な要因が認められる場合には、業務が疾病と条件関係にあるほか、これらの要因に比較して、業務上の事由が相対的に有力に作用したことが必要であると主張し、業務起因性の要件を狭めるが、これは、前記の災害補償制度の趣旨に反するので、妥当ではない。
(二) また、労働基準法七五条二項は、労働上の疾病の範囲を命令で定めるものと規定するが、その趣旨は、業務上の疾病に関する相当因果関係は傷害の場合ほど明確でないので、その点を命令で明らかにしようとした趣旨に出るものにすぎないのであって、相当因果関係の認められる余地を制限する趣旨ではない。
被告は、行政上の認定基準に該当しないことをもって、原告の本件疾病には業務起因性がないと主張するが、あくまで認定基準は行政の内部基準にすぎないものであるから、右認定基準に該当しないことをもって、相当因果関係が認められないものとすることはできない。
さらに、業務起因性の有無は、被災労働者の健康状態に照らして判断されるべきであり、同僚労働者と比較して論ずるべき問題ではない。仮に被災労働者とその同僚の業務を比較するとしても、原告は、一般看護業務のほかに、婦長として永山病院の看護課七部門全てを統括する業務に従事していたのであるから、看護課の一つにすぎない第二病棟詰所の主任の杉原早苗(以下「杉原」という。)とは、同僚として比較する対象たり得ない。
(三) したがって、以下では、原告の本件疾病が本件業務と合理的な関連性を有するかが、検討されるべきである。
7 業務起因性
(一) 原告は、永山病院が九八床から二〇六床に増床する中で、看護婦を思うように増員できず、看護婦の配置異動、再教育、労務管理全般、臨床体制の確立、患者の管理等の過重な業務により、精神的にも肉体的にも疲労を蓄積させていたところ、本件疾病発症前日には院長から叱責され、当日には長時間の手術を介補し、手術後の管理を担当し、自宅で日報の整理をする等、過重な業務に従事しながら、入院患者から大声でなじられるなどのトラブルに見舞われ、その結果、ストレスが限界に達し、本件疾病発症に至ったのであるから、本件疾病は、業務に起因して発症したことが明らかである。
(二) 本件疾病は、それ自体としては重篤なものではなく、発症後早期に治療がされれば、婦長として復帰できるはずのものであったのに、本件疾病により、原告に後遺症が残ったのは、原告が、婦長室という自分の身に危険が発生した場合に外部に連絡することができない孤立した部屋において業務に従事した結果、本件疾病発症後一四時間も発見されずに放置されたことが原因であるから、原告の本件疾病のうち、右発見の遅れにより悪化した部分については、業務に起因するというべきである。
8 結論
よって、原告は、労災保険法に基づき、被告が原告に対し昭和六〇年二月一三日付けでした労災保険法に基づく休業補償給付を支給しない旨の処分の取消しを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1は認める。
2 同2のうち、原告に右片麻痺、失語症の後遺症があることは不知、その余は認める。
3 同3は認める。
4(一) 同4(一)は認める。
(二) 同4(二)のうち、原告の所定労働時間が午前八時三〇分から午後五時までであったことは認め、その余は否認する。
(三) 同4(三)は不知。
(四) 同4(四)のうち、永山病院が昭和五八年一二月一四日、ベッド数を九八床から一六八床に増床し、昭和五九年四月一八日、さらに二〇六床に増床したとの点は認め、その余は不知。
(五) 同4(五)のうち、原告(ママ)が見習い看護婦を看護学校に通学させたこと、そのうちの三名が永山病院を退職したことは認め、その余は不知。
(六) 同4(六)は不知。
5(一) 同5(一)のうち、原告が、昭和五九年五月二一日午後四時ころ、永山院長に叱責されたことは認め、その余は不知。
(二) 同5(二)は不知。
(三) 同5(三)ないし(八)は認める。
(四) 同5(九)は否認する。
(五) 同5(一〇)のうち、原告が婦長室を与えられ、そこで婦長としての業務に従事していたこと、ドアにすりガラスがはめ込まれていることは認め、その余は不知ないし争う。
6 同6は争う。
7 同7は争う。
三 被告の主張
1 災害補償上の相当因果関係
(一) 労働者の疾病が労基法・労災保険法上の補償の対象となるためには、業務起因性の存在が必要であるところ、業務起因性があるというためには、業務と疾病との間に条件関係が認められるだけでは足りず、これを相当とする相当因果関係が必要である。そして、災害補償上の相当因果関係の有無は、以下に述べるとおり、災害補償の法的性格、制度的特質、法文解釈等に鑑みて判断する必要があり、不法行為論で論じられている相当因果関係とはその概念を異にするものであることに留意しなければならない。
(二) 労基法・労災保険法は、災害補償及び業務災害に関する保険給付の要件として、傷病が業務上のものであることを必要としており(労基法第七五条、七九条、八〇条、労災保険法一条、七条)、その対象となる傷病の範囲は同一である(労災保険法一二条の八第二項)。また、労基法八四条で、労災保険法に基づいて保険給付が行われる場合には、使用者は災害補償の責を免れるものとされているのであるから、業務災害に関する保険給付は、労基法上の災害補償責任を担保するためのものであることが明らかである。労基法は、使用者の過失の有無を問わず、右業務上の傷病による労働者の損失の全額を使用者が負担することを義務付けているのみならず(労基法七五条)、使用者に対し、刑罰をもってその履行を強制する(労基法一一九条一号)。したがって、このような災害補償の制度内容に鑑みれば、労働者は、従属的労働契約関係に基づいて使用者の支配下にあるのであるから、労務の提供をする過程において、業務そのものに内在する危険が顕在化して傷病が惹起された場合には、その傷病の発症について使用者に何らの過失がなくとも、使用者が労働者の損失を補填することは当然である。しかし、他方、当該傷病が単に労務提供の機会に偶発したにすぎない場合にも、従属的労働関係にあることの故をもって、使用者が労働者の損失を補填しなければならないとするならば、使用者に対し過大な負担を強いることになって、不当というほかはない。
労災保険給付は前記のとおり使用者の災害補償責任を担保するためのものであり、また、労災保険法においては、保険給付の原資の大部分が使用者の負担する保険料により賄われていることからして、当該傷病が単に労務提供の機会に偶発したにすぎない場合にも労災保険により被災労働者の損失を補填すべきものとするのは、労災保険制度の趣旨に反するのみならず、保険料を介して使用者に過大な負担を強いることになり、ひいては、労災保険制度の存続基盤自体を危うくすることにもなりかねない。以上によれば、業務そのものに当該傷病を発症させる有害因子・危険が内在する場合において、使用者が労働者を右業務に従事させた結果、右危険が現実化し、労働者に傷病を惹起させた場合に限って、労災保険給付を行うことが合理的であり、災害補償の法的性質・制度的特質に合致するものである。
よって、災害補償上の因果関係の判断に当たっては、まずに、当該業務に当該傷病を惹起させる具体的危険性が内在するか否かを判断する必要がある。
(三) 労働者が労災保険給付を受けるためには、労働者の疾病が労基法七五条一項の「業務上の疾病」に当たることが必要であり、同条二項は、この「業務上の疾病」の範囲について命令で定めるものと規定し、これを受けて、同法施行規則三五条・別表第一の二が定められた。
業務上の疾病には、負傷の場合と同様にその原因事実を時間的・場所的に明確に特定できるものもあるが、業務に伴う有害作用を徐々に受けて発症したり、あるいは、有害な作業環境を離れて相当期間経過後に発症するものもある。それゆえに、業務上の疾病の範囲を明確にしておかなければ、業務の有害因子及びこれに起因する疾病についての認識が、使用者・労働者双方にとってまちまちとなり、災害補償の適切な履行が困難となるおそれがある。
また、使用者の災害補償は、労基法が刑罰をもって履行を強制するものであるから、業務上の疾病の範囲について具体的かつ明確に定める必要がある。そこで、業務に内在する有害因子に起因する疾病として医学的見地より解明されたものについては、これを「業務上の疾病」として、命令でその範囲を具体的かつ明確に定めるものとされた。労基法施行規則三五条・別表第一の二には、業務上の疾病として、<1>業務上の「負傷に起因する疾病」、<2>特定の有害因子による疾病、<3>「その他業務に起因することの明らかな疾病」の三種が規定されている。
<1>の業務上の「負傷に起因する疾病」は、災害性の疾病であり、突発的な出来事である災害による負傷に起因する疾病であるので、その業務起因性の判断が比較的容易な類型である。
<2>の特定の有害因子による疾病(狭義の職業疾患)は、一定の職業に従事することにより、一定の疾病に罹患しやすいことが経験則上明らかにされているもの、すなわち、医学ないし疫学上、当該業務には当該疾病を生じさせる有害因子・危険性が内在していることが認められているため、業務に起因することが経験則上明白な類型である(職業性例示疾病)
<3>の「その他業務に起因することの明らかな疾病」は、包括疾病といわれるもので、右<1>、<2>の類型には属しないが、これに準じた性質を有する疾病を包括するものである。すなわち、当該業務には当該疾病を生じさせる有害因子ないし具体的危険があるため、業務に起因することが経験則上明白であるという意味での「明らかさ」を有する疾病を広く一般的に包含する趣旨である。<3>の包括疾病が、当該業務に当該疾病を発生させる有害因子・危険が内包され、これが現実化したことによる疾病であることを要するのは、<2>の職業性例示疾病と同様であるが、職業性例示疾病は、右の有害因子・危険による疾病であることが、医学ないし疫学的知見から一般化・定型化されたものであるのに対して、包括疾病は、業務と疾病との関係を一般化、定型化できないものを予定している点が異なるにすぎない。
(四) 以上から明らかなように、災害補償に関しては、これが使用者に特別の責任と負担を課すものである以上、職業と疾病との間に、条件関係があることを前提とした上で、更に災害補償の法的性質・制度的特質、労基法・労災保険法の立法趣旨に鑑み、災害補償を認めるのを相当とする関係(相当因果関係)の存在を必要とするというべきである。
そして、その相当因果関係の存否の判断に当たって、業務上の事由のほかに、他の有力な要因が認められる場合には、これらの要因に比較して、業務上の事由が相対的に有力に作用したと認められた場合についてのみ、相当因果関係があるとみるべきである。
さらに、有力に作用したか否かの判断に当たっては、当該業務が当該疾病を生じさせる具体的危険を内在させているか否か、すなわち、業務に内在する具体的危険と疾病との関連性という一定の客観的な要件が存在するか否かを判断の根拠としなければならないものである。
2 本件業務
(一) 原告は、昭和四六年九月二二日、医療法人三和会永山病院にパート看護婦として採用され、昭和四九年一〇月一日、正規職員となると同時に、人工腎センター婦長に就任した。そして、昭和五三年四月一日、看護課婦長に就任し、以来、主として看護婦等の管理業務に従事していた。
本件疾病発症当時は、看護婦及び看護補助者約一一〇名の責任者として、看護婦らの配置、勤務表の作成、人事、指導教育等の管理業務のほか、手術の介補、病室の見回り等の現場業務にも従事していた。
(二) 昭和五九年五月一日当時の永山病院の組織は、看護課が看護婦に関する業務を所管しており、その最高責任者として婦長が置かれており、原告がその地位にあった。看護課の下部組織としては、肛門科外来等、七つの科が置かれ、科の責任者として主任看護婦が置かれていた。主任看護婦は、各科に属する看護婦を統括し、原告が、婦長として、全般的総括的な責任者であった。
看護婦らの各科への配置は、毎年三月末に決定しており、その配置表は、原告が作成していた。ただし、配置表の原案は、各科の責任者である主任看護婦が作成しており、原告は、主任の作成した配置表原案を基にして、調整した。原告は、毎月一回、看護婦の昼夜勤の勤務表を作成した。
現場の主任看護婦は、各科に配属された看護婦らの指導育成を担当した。原告の本件疾病発症当時、看護学校に通学していた看護学生は、約一〇名いたが、原告は、右看護学生を直接指導し、看護学校との連絡等に当たった。原告は、そのほかに、看護婦の残業時間の集計をしたり、看護婦の業務上の悩みを聞いたり、患者とのトラブルの処理に当たったり等の管理業務を行った。
原告は、手術の介補、病室の見回り等の看護業務にも携わっていた。
永山病院で行われた手術は、いずれも比較的容易なものであり、しかも、手術の介補は、本件疾病発症前六か月間の介補日数合計二九日、介補回数合計三四回で、月平均は、介補日数四・八日、介補回数五・七回であり、原告の行っていた看護婦としての右現場業務は、比較的軽微なものであった。原告の本件疾病発症当時、永山病院の引っ越しに伴う業務やベッド数の増加、看護婦の増員が思うようにいかない等の問題があったので、原告の精神的な負担は若干増加していたものと推測される。ただし、本件疾病発症前六か月間の看護婦数や患者数に特段の増減はない。
原告の所定労働時間は、午前八時三〇分から午後五時までで、その内、休憩時間を一時間とする実働七時間三〇分であり、原告には、他の一般の看護婦と異なり、夜勤はなかった。
永山病院の所定休日は、日曜、祝祭日、一二月三一日から一月三日までの年末年始である。
永山病院においては、昭和六〇年六月ころから業務分担の組織が変更され、看護婦を統括する最高責任者である総婦長を頂点として、その下に病棟、透析、外来の三つの部門が設置され、それぞれの責任者として婦長が選任され、それぞれの部門の下に複数の科が設置され、その責任者として主任看護婦が選任された。
現在、永山病院における総婦長は、原告が本件疾病発症当時に行っていた婦長としての業務から手術担当業務を除外した管理業務を担当するが、看護婦等の人数も増加している上に、現総婦長である杉原は、病棟婦長を兼務しており、同人の遂行する業務は、原告が本件疾病発症当時に遂行していた業務に比較して相当負担が重い。しかし、それにもかかわらず、同人は、遅くとも大概午後六時半ころには業務を終えて帰宅し、自宅での持ち帰りの仕事としては、わずかに勤務表の作成がある程度にすぎない。原告の本件疾病発症当時の原告の業務内容は、杉原早苗が現在担当する業務に比較しても負担が軽く、原告が主張するような残業を必要とするものではなかった。
(三) 原告は、本件疾病発症当日(昭和五九年五月二二日)、午前八時一九分に出勤した後、午後一時三〇分から午後五時五〇分までの間、胆嚢摘除手術の介補をし、患者に関する術後の観察、医師の指示による処置等の申し送り事項等を担当看護婦に伝達し、午後六時すぎ、患者から病室変更についての苦情を聞いた。
原告が、本件疾病発症当日に遂行した業務は、通常の日常的な業務であって過重なものではなく、また、本件疾病を発症させるような業務に関連する異常な出来事も生じなかった。
この点、原告は、本件疾病発症前日に永山院長から叱責され、本件疾病発症当日に患者から苦情を訴えられたことが、本件疾病を発症させるような特段の精神的負担を及ぼした旨主張する。しかしながら、原告は、長年にわたって婦長の地位にあり、院長の信頼も厚く、患者や看護婦等のトラブルを適切に対処できる力量と経験を備え、現に日常的にトラブルを処理したのであるから、これらの出来事は、原告にとって日常的な業務の範囲内にあるものであり、原告に本件疾病を発症させるような精神的負担を与えたり、過重負荷を与えるようなものではなかった。
(四) 原告の本件疾病発症前六か月間の時間外労働・休日労働時間は、別紙「発症前6か月の時間外等の労働時間の状況(原告及び被告の主張)」の被告主張部分記載のとおりである。
本件疾病発症当日の業務も、また、その前日である昭和五九年五月二一日の業務も、さらに、発症前一週間(昭和五九年五月一五日から同月二一日まで)の業務も、いずれも日常の業務と同様で、原告は、十分に休日を取得し、さして残業もしなかったので、原告の遂行した業務は、特に過重なものではなかった。さらに、本件疾病発症前一か月間(昭和五九年四月二二日から五月二一日まで)、また、本件疾病発症前三か月間の業務内容を検討してみても、原告は、十分に休養(ママ)を取得し、残業時間も少なかったので、その業務が過重なものでなかったことは明らかである。
原告は、タイムカードに打刻された退勤時刻から出勤時刻を控除した時間をもって、原告の実労働時間であると主張するが、残業時間の管理は、別途所定の残業表によってされていたのであって、タイムカードの打刻は、労働時間を反映しない。原告以外の看護婦らも、業務を終えた後、休憩室で暫時雑談等をしてから、タイムカードを打刻して帰宅していたのであって、残業時間とタイムカードの打刻時刻とは無関係であったことが明らかである。
原告は、業務の終了後も病院内に滞在して、休憩室で看護婦らと雑談したり、婦長室で外部の人と雑談したり、また、午後五時以降に外出した後、永山病院に置いてある自転車を取りに、再び永山病院に戻ってからタイムカードを打刻して帰宅したりしていたのである。
原告は、実際に残業をしたときは、自ら残業表に記載したのであって、右残業表に記載のないときは、業務に従事していなかった。
したがって、原告は、タイムカードの打刻時間どおりの業務を遂行していたものではなく、原告の時間外労働・休日労働時間は、残業表記載のとおりであって、原告の遂行していた業務の性質、内容等に鑑みると、原告が本件疾病発症前に遂行していた業務は、日常業務に比較して特に過重なものであったとはいえない。
3 業務起因性
(一) 脳出血等の循環器系疾患は、病的な素因、基礎疾病、体質、遺伝、食生活、気象条件、喫煙、飲酒その他業務に直接関連のない生活環境によっても生じ、業務との関連性の判断は、判然としないことが多い。
これらの疾病は、その発症の基礎となる動脈硬化等による血管病変、動脈瘤等の基礎的病態が、加齢や一般生活上の様々な要因によって増悪し、発症に至るものがほとんどである。しかし、この自然的経過中に著しく血管病変等を増悪させる急激な血圧変動や血管収縮を引き起こす負荷が加わると、その自然的経過を超えて急激に増悪し、発症することがある。
したがって、業務に起因して、明らかに脳血管疾患を発症させるような著しい過重負荷がかかった場合に限り、右発症に業務起因性があるというべきである。業務の過重負荷の程度は、医学的経験上、発症の認められるような明らかな危険性を帯びるに至ったと認められる程度でなければならない。たとえ通常業務ないしは通常よりもかなり重い業務に起因して右各疾病が発症したとしても、それらは、労働者の日常生活そのもの、あるいは、日常生活においてしばしばかかり得る程度の負荷に起因して発症したにすぎないというべきであるから、労働者の有する素因、基礎疾病等が、日常生活の経過により自然的な増悪による発症あるいは重篤化したものと判断される。そして、従事した業務が、一般の同種労働者であれば発症する過重性を有していないならば、たとえその労働者に高血圧症、脳動脈瘤、動脈硬化症等の素因があったために、これらの素因や基礎疾病と競合し、あるいはそれが悪化して発症したとしても、従事した業務自体が明らかな危険性を有していたとはいえず、「特に過重な負荷」があったとはいえない。すなわち、労働者の個体差にかかわらず、一般の労働者にとって脳血管疾患が発生しても不自然ではないというような危険性、有害性を帯びるような強度を有する業務でなければ、業務が過重であったということはできない。
本件においては、原告が本件疾病発症前に従事した業務が日常の業務よりも重いということはなく、一般の同種労働者であれば本件疾病を発症するほどの過重性を有していなかったので、原告が、本件疾病の原因となり得るほどの「特に過重な業務」に従事したとは到底認められない。本件疾病は、専ら原告の素因や基礎疾病に基づき、たまたま業務中に発症したにすぎないものであって、業務に起因するものではないというべきである。
(二) 本件疾病である高血圧性脳出血は、高血圧及び高血圧性変化が最大の発生要因であり、高血圧により血管壁が脆弱化し、脳血管が破綻して出血に至るものである。
原告は、遅くとも昭和五四年三月には、最高血圧一七〇mmHg(以下血圧につき単位同じ)、最低血圧九〇、同年四月の健康診断では、最高血圧一七〇、最低血圧一二〇という高血圧を示していた。以来、本件疾病発症に至るまで、最高血圧一九〇前後、最低血圧一三〇前後という高血圧状態を呈していた。原告の血圧は、降圧剤により調整されていたものの、服用は断続的で、血圧は十分にコントロールされていたとはいえず、依然として常時高血圧状態であった。
原告は、昭和五五年二月、高血圧症、心拡大との診断を受け、治療が開始され、昭和五六年五月の健康診断時には、胸部レントゲン写真において心拡大が認められた。
以上のように、原告は、遅くとも、昭和五四年三月当時から長期間にわたって高血圧が持続しており、かかる高血圧症は、相当前から発生していたものと推測される。しかも、右高血圧のコントロールは困難で、同人の心拡大、動脈硬化とあいまって同人の血管壁の脆弱性が高まり、そのため、原告は、本件疾病発症当時、脳内出血等、血管障害の極めて起こりやすい身体的状況にあったものである。
原告の本件疾病は、以上のように長期間にわたる高血圧及び高血圧性の血管病変により脳血管が破綻したものであって、当然起きるべくして起きたものであり、それが業務遂行中に偶発したにすぎないものである。
したがって、本件疾病は、原告の右基礎疾病に起因するものであって、同人の遂行していた業務との間には相当因果関係はなく、本件疾病が業務に起因するものであるということはできない。
(三) 原告は、本件疾病発症後、約一四時間も発見されず、そのために本件疾病が悪化したところ、右発見の遅れは日常生活において通常ありうる程度の発見の遅れとはいえないものであるから、右発見の遅れによって悪化した部分については業務に起因したものであると主張する。
(四) 発見の遅れによる症状の悪化をもって、業務上の疾病であるというためには、業務自体に発見の遅れの危険性が客観的に内在すること、すなわち、労働者が業務に従事する場所が、外部との連絡が遮断・隔離された特別な環境下にあり、そのために被災労働者が治療機会を喪失したと客観的に認められることが必要である。
原告の与えられた婦長室は個室であり、扉により廊下と隔てられていたが、扉にはすりガラスがはめ込まれた窓があり、扉の上部及び廊下と婦長室の間の壁の上部には回転ガラス窓があった。原告は、婦長室に在室中、ほとんど鍵をかけず、医師や看護婦、製薬会社の社員、医療機器のセールスマンら、多数の人が自由に出入りした。永山病院には、入院患者がおり、昼夜を通じて、医師や看護婦等が常時勤務していた。夜間には、警備員が病院内や婦長室を巡回した。
以上のとおり、原告の執務室であった婦長室は、個室ではあったが、外部から遮断されて孤立した部屋ではなく、誰でもいつでも自由に出入りできる解放された空間であったので、婦長室は、外部との連絡が遮断され、隔離された特別な勤務環境にあるということはできず、これが本件疾病を発症した原告を発見するについて遅れをもたらしたり、あるいは、治療機会を喪失されるような客観的危険性を包含するものであったということはできない。
(五) 原告は、本件疾病を発症後に発見された時点で、既に半昏睡で瞳孔不同、除脳硬直などの脳ヘルニアの症状が発生していたこと、原告の脳出血がかなりの大出血巣を形成していたことからすると、原告は、本件疾病発症当初から単に脳浮腫発生による脳膨張のみならず、続発性出血による血腫拡大があったものと推定される。右血腫拡大は、経験的に、初期病勢によって決まることが多く、有効な阻止措置はない。また、原告は、本件疾病発症直後より、高いいびきをかいたこと、本件疾病発症後一四時間が経過して発見されるまで、何らの救助要請もしなかったことからすると、原告は、当初から、意識障害及び神経脱落症状が強く、決して軽症の脳内出血ではなかったと推定される。
したがって、原告が、本件疾病発症後、早期に発見され、何らかの措置(抗脳浮腫薬の投与等)が採られたとしても、重篤な後遺症の発症を防止することはできなかったものである。
(六) 以上のとおり、原告は、本件疾病発症後約一四時間経過して発見されたのであるが、仮に本件疾病発症後早期に発見され、適切な治療を受けたとしても、重篤な後遺症の発症を防止することはできなかったし、原告が個室である婦長室を与えられて業務に従事したことには、本件疾病発症の発見の遅れをもたらしたり、治療機会を喪失させるような客観的危険性が包含されたものであったということはできないのであるから、原告の右発見の遅れをもって、本件疾病が業務上の疾病であるということはできない。
4 結論
よって、原告の本件疾病は、労働基準法七五条、同法施行規則三五条、別表第一の二第九号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」と認めることはできないので、労災保険法に基づく休業補償給付を支給しない旨の本件処分は、適法なものである。
第三証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録各記載のとおりであるから、これらを引用する。
理由
一 認定される事実
当事者間に争いのない事実並びに(証拠・人証略)に弁論の全趣旨を総合すると、以下の各事実が認められる。
1 当事者
原告(昭和一三年一一月一四日生まれ)は、昭和四六年九月一三日、永山病院にパート看護婦として雇用され、昭和四九年一〇月一日、正規職員(看護婦)として雇用され、昭和五三年四月一日、看護課婦長として稼働していた(本件業務)。
2 本件疾病
原告は、昭和五九年五月二二日午後七時ころ、永山病院婦長室内において、高血圧性脳内出血(本件疾病)を発症させ、意識を失い、翌二三日午前九時ころ、半昏睡の状態で発見された。
原告は、直ちに永山病院において応急措置を受け、昭和五九年五月二三日午前一一時三〇分ころ、和歌山県立医科大学付属病院に搬送された。同病院脳神経外科教授であった駒井則彦医師(以下「駒井医師」という。)は、昭和五九年五月二三日、右症状から、原告は、左側被殻に脳出血したものと診断し、午後一時三〇分ころより、開頭血腫除去手術を開始した。駒井医師は、右手術により、原告の脳内から固い凝血二五グラムと髄液を含む血腫二五グラムを除去し、外減圧術を併用して、手術を終了させた。原告は、リハビリテーションのため、昭和五九年六月二〇日、永山病院に転院した。
原告には、その後、右片麻痺、失語症が後遺症として残った。
3 不支給処分
(一) 原告は、本件疾病が、本件業務に起因するとして、被告に対し、昭和五九年七月一九日、労災保険法に基づき、本件疾病を理由とする休業のうち、昭和五九年六月二〇日ないし同月二三日の四日間の休業につき、休業補償給付の請求をしたが、被告は、原告に対し、昭和六〇年二月一三日、本件疾病は業務に起因することが明らかな疾病とは認められないとして、右休業補償給付の不支給処分(本件処分)をした。
(二) 原告は、右処分を不服として、大阪労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求をしたが、同審査官は、原告に対し、平成三年九月一八日付けで、審査請求を棄却する旨の決定をした。
(三) 原告は、右決定を不服として、労働保険審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は、原告に対し、平成七年七月一九日付けで、再審査請求を棄却する旨の裁決をし、右裁決は、平成七年八月一八日、原告に送達された。
4 本件業務
(一) 管理業務
永山病院には、本件疾病発症直前である昭和五九年五月一日当時、看護婦に関する業務全般を所管する部署として、看護課が設置され、看護課の下部組織として、肛門科外来、泌尿器科外来、内科外来、外科外来、人工透析、第一病棟詰所、第二病棟詰所が配置されていた。各科の主任看護婦は、各科に属する看護婦を統括し、看護課婦長が、看護婦の配置、教育、指導等、入院・外来とも、全看護部門を統括した。
永山病院においては、看護婦らの各科への配置は、毎年三月末に決定された。各科の主任看護婦が、右各看護婦の配置表原案を作成し、原告が、右原案をもとにして、調整の上、配置表を作成した。原告は、毎月一回、各看護婦の昼夜勤の勤務表を作成し、時間外労働時間の集計を担当した。
現場の主任看護婦は、各科に配属された看護婦らの指導育成を担当し、原告は、婦長として、これを統括した。原告は、看護学生らの指導を担当し、看護学校との運営等にも当たった。右看護学生は、本件疾病発症当時(昭和五九年五月二二日)、永山病院に約一〇名在籍した。
原告は、永山病院に所属する看護婦の管理・監督に付随して、看護婦の悩みを聞いたり、看護婦と患者とのトラブルを仲裁するなどした。
(二) 看護業務
原告は、婦長としての管理業務のみならず、手術の介補等の業務にも従事した。
永山病院においては、原告が婦長であった当時、手術場には専属のスタッフがおらず、手術をするたびに、原告が、経験のある看護婦を手配した。原告は、深夜に救急患者に手術を行う場合のように、右看護婦の手配ができなかったときには、自分で手術の介補をすることもあったし、原告は、院長の信頼が厚かったので、特に院長から指名されて手術の介補をすることもあった。
永山病院において、手術の介補には、手洗い、外回り、手袋の区分があった。手洗いとは、執刀医の脇に位置し、執刀医の指示に従い、手術機器を手渡す業務を担当し、外回りとは、執刀医を補助し、患者を手術台に移したり、心電図を読みとったりする業務を担当し、手袋とは、比較的簡易な手術について執刀医を補助する業務を担当した。手術を介補する看護婦の中で、最も熟練し、責任者としての地位にある看護婦は、外回りを担当した。
看護婦が手術の介補をする場合、手術室の準備及び後片づけ、申し送り事項の伝達も行った。
永山病院において、手術は、原則として午後一時ころから開始されたが、執刀医の外来が長引く等の理由により、時間がずれ込むこともあった。
手術の際、患者にかける麻酔には、全身麻酔と局所麻酔の二種類があるが、全身麻酔を利用する場合は、介補の看護婦は、立ちづめで、長い場合には三時間から四時間、手術を介補しなければならなかった。
原告が、昭和五八年一二月から昭和五九年五月までの間に、介補した手術の数、手術総数に占める原告の介補件数の割合及び局部・全身麻酔の別は、次のとおりである<左表>。
手術件数 介補件数 全身麻酔 原告介補率(%)
昭和五八年一二月 一九件 四件 一件 二一・一
昭和五九年一月 一四件 二件 一件 一四・三
昭和五九年二月 一九件 五件 二件 二六・三
昭和五九年三月 二七件 九件 二件 三三・三
昭和五九年四月 一六件 八件 三件 五〇・〇
昭和五九年五月 三四件 七件 二件 二〇・六
(三) 労働時間
原告の所定労働時間は、午前八時三〇分から午後五時までで、休憩時間を一時間とし、実労働時間は七時間三〇分であった。原告には、他の一般の看護婦と異なり、夜勤はなかった。永山病院の所定休日は、日曜、祝祭日、一二月三一日から一月三日までの年末年始であった。
原告の本件疾病発症前六か月の時間外労働時間数及び全労働時間数は、タイムカードの記載より、別紙「労働時間一覧表1ないし6」<略、以下同じ>記載のとおりであったと認められる(タイムカードに出勤時刻又は退勤時刻の打刻がない場合には、残業表記載の時間数又は所定労働時間数は業務に従事していたものと認められる。)。
この点、被告は、永山病院では、時間外労働時間数の管理は、残業表によってされていたのであり、タイムカードは単に永山病院への出退勤の確認の限度で利用されていたにすぎないので、原告の時間外労働時間数及び全労働時間数は、右残業表に基づいて算定されるべきであると主張し、杉原はこれに沿う供述をする。そして、杉原の供述及び聴取書(<証拠略>)、中谷由美子(<証拠略>)、古井まゆみ(<証拠略>)、坂上静香(<証拠略>)の各聴取書によれば、原告が、残業表の記載から算定された時間外労働時間数を超えては業務に従事していなかったはずであり、休憩室で看護婦らと雑談していたり、婦長室で永山病院の外部の男性と雑談し、午後五時以降、右男性と自動車でしばらく外出したりしていたとする。
しかし、タイムカードは、一般的に、出勤時刻及び退勤時刻を機械的に正確に記録し、もって勤務時間の管理に使用されるものであるから、タイムカードを単に出退勤の確認の限度でしか利用しないというのは不自然である。また、原告は、本件疾病発症当時、夫と二人の子を抱えた家庭の主婦であったことからすると、原告が夫以外の男性と外出するというのは不自然であるし、阪上高子が原告の右男性関係を明確に否定した証言をしたことからすると、杉原の右供述及び聴取書、中谷由美子、古井まゆみ、坂上静香の各聴取書のうち、原告の男性関係に関する部分は、採用することができない。また、タイムカードの記載から算定された労働時間数(原告主張)と時間外労働等報告書の記載から算定された労働時間数(被告主張)の差は、最も多い月で一か月当たり四八時間五二分(昭和五八年一一月二二日ないし昭和五八年一二月二一日)、最も少ない月で一か月当たり三二時間三五分(昭和五八年一二月二二日ないし昭和五九年一月二一日)にもなるので、婦長たる原告が、右時間中全てを無為に雑談等に費やしたとは考えがたい。原告は、本件疾病発症当時、永山病院の増床問題等を抱えていたため、管理業務が一定程度増加していたと推認されるし、山口及び杉原によれば、両名とも、現在は管理職として管理職手当を受給しているので、たとえ終業時刻以後も永山病院で業務に従事していたとしても、右時間を残業表に記載せず、残業手当を受給していないと供述するので、原告においても、終業時刻以後、婦長としての管理業務に従事していた場合には、婦長手当を受給していた以上、敢えてこれを残業として報告しなかったということが十分に考えられる。
したがって、原告の労働時間は、タイムカードの記載によって算定するべきであり、本件疾病発症前六か月の時間外労働時間数及び全労働時間数は、タイムカードの記載より、別紙「労働時間一覧表1ないし6」記載のとおりであったと認められる。そして、これによれば、原告の一か月当たりの労働時間数は、二六一時間三〇分(昭和五九年三月二一日から四月二〇日まで)ないし二二四時間二一分(昭和五九年二月二一日から三月二〇日まで)であり、一か月当たり四日(昭和五九年二月二一日から三月二〇日まで)ないし七日(昭和五九年四月二一日から五月二〇日まで)の休日を取得したことが認められる。
(四) 婦長室
原告は、婦長として、個室の執務室(婦長室)を与えられ、ここで婦長としての業務に従事した。
婦長室は、病室を改造して設置された部屋であった。永山病院二階南西角に、事務長室が位置し、婦長室はその北に隣接して設置された。婦長室の向かいは廊下をはさんで倉庫になっており、北には病室が並んでいた。婦長室は、扉によって廊下と仕切られていたが、扉にはすりガラスがはめ込まれ、扉の上部に、換気用として、回転ガラス窓が設置されていた。扉には、内側からはボタンロック、外側からはキーにて施錠できる鍵が設置されていたが、原告は、婦長室に在室中、ほとんど鍵をかけなかった。
婦長室には、婦長に相談を持ちかける看護婦や患者、その他職員、セールスマンが訪れることがあった。
(五) 増床等
大阪府泉南郡熊取町には、昭和五八年当時、町立病院が存在しなかった。そこで、永山病院は、地域の中心的な病院として活動するため、建物を増築し、九八床だったベッド数を、昭和五八年一二月一四日には一六八床に、昭和五九年四月一八日には二〇六床に増床した。永山病院では、右増床に伴い、これに比例して必要となった看護婦を募集した。原告は、右看護婦の採用につき、面接等の業務に従事していたが、思うように看護婦が募集できなかった。
昭和五九年四月ころ、永山病院で見習いをしながら看護学校に通っていた看護学生のうち、三名が、看護学校卒(ママ)業して准看護婦の資格を取得した後、永山病院を退職して進学した。原告は、右学生らを、即戦力として期待していただけに、右退職に落胆したし、永山院長からは管理監督が行き届いていないとして叱責された。
昭和五九年一月ないし昭和五九年五月までの外来患者数、入院患者数の推移は次のとおりである。
外来患者数 入院患者数
昭和五九年一月 四四二八 一〇二
昭和五九年二月 四一五三 九五
昭和五九年三月 四九一〇 一〇四
昭和五九年四月 四四九六 一一〇
昭和五九年五月 四二四二 一三一
永山病院の昭和五九年五月一日現在の看護婦数は、看護補助者を含めて八二人であった。永山病院の外来患者数及び入院患者数から、国によって定められた必要な看護婦数を算定すると、三一名となり、永山病院の看護婦数は、これを大きく上回っていた。また、永山病院は、昭和五七年、昭和五八年と、泉大津保健所の医療監視結果報告によっても、特に、看護婦が基準値数以下であると指摘されたことはなかった。
(六) 昭和五九年五月二二日の業務
原告は、昭和五九年五月二二日午前八時〇五分ころ、英男に対し、今日は手術もあるし、残務整理もあるから、帰宅が遅くなると告げて、自宅から自転車で出勤し、午前八時一九分ころ、永山病院に到着した。
原告は、午後一時三〇分ころから午後五時三〇分ころまで、大野医師執刀、永山院長、医師三名の立会いの胆石患者の胆嚢摘除手術(全身麻酔)につき、他の三名の看護婦とともに、外回りとして介補した。永山院長は、東京に出張のため、右手術を中座した。永山院長は、自己の留守の間、右患者の術後の観察と医師の指示による処置の施行等を病棟看護婦に徹底するよう命じた。原告は、右手術終了後、右患者に対する術後の観察、医師の指示等による処置等の申し送り事項等を担当の病棟看護婦に伝達した。原告は、右手術終了直後は、顔面がやや蒼白していたが、病棟看護婦に対して申し送り事項を伝達するころは、普通の顔色であったが、疲れていた様子であった。
原告は、午後六時ころ、永山病院一階売店付近で、男性の入院患者から、病院の都合で勝手病(ママ)室を移転させられたと大声で一方的になじられ、涙を流した。原告は、午後六時三〇分ころ、売店付近で、店主と立ち話をし、「今日しんどくて頭痛がする。」と漏らした。
原告は、その後、婦長室に戻った。
5 本件疾病の発症
(一) 原告は、昭和五九年五月二二日午後七時ころ、永山病院婦長室内において、本件疾病を発症させ、意識を失った。
(二) 英男は、原告の帰宅が遅いので、昭和五九年五月二二日午後一一時五〇分ころ、永山病院に電話で原告の所在を確かめたところ、詰所にいた看護婦が「帰られたと思う。」と回答した。
(三) 英男は、昭和五九年五月二三日午前〇時五五分ころ、原告の所在を確かめるために再度永山病院に電話をかけたが、電話に出た当直職員は、他人(今村ひとみ)のタイムカードを原告のタイムカードと誤認し、英男に対し、タイムカードによれば午後五時〇四分に退出したことになっており、永山病院内にはいないと回答した。
(四) 英男は、昭和五九年五月二三日午前八時四〇分ころ、永山病院内に原告の通勤用の自転車を発見したので、原告が依然として永山病院内に存在することを確信し、午前九時ころ、永山病院事務長永山正己とともに婦長室に赴いたが、その直前に、看護婦が、婦長室内で、本件疾病を発症して半昏睡の状態にあった原告を発見した。
(五) 原告は、直ちに永山病院において応急措置を受け、昭和五九年五月二三日午前一一時三〇分ころ、和歌山県立医科大学付属病院に搬送された。和歌山県立医科大学付属病院脳神経外科教授であった駒井則彦医師(以下「駒井医師」という。)は、昭和五九年五月二三日、原告の右症状から左側被殻に脳出血したものと診断し、午後一時三〇分ころより、開頭血腫除去手術を開始した。駒井医師は、右手術により、固い凝血二五グラムと髄液を含む血腫二五グラムを除去し、外減圧術を併用して、手術を終了させた。原告は、リハビリテーションのため、昭和五九年六月二〇日、永山病院に転院した。
6 既往症
(一) 原告の血圧測定値は、昭和五四年以降、別紙血圧測定値一覧表<略>記載のとおりであった。
原告は、昭和五五年二月二五日、高血圧症、心拡大と診断され、投薬治療を受けていた。また、原告は、昭和五六年五月一四日、一般健康診断における胸部レントゲン写真において、心肥大が認められた。
原告は、高血圧症、心拡大により薬を処方されたものの、服用は断続的であった。原告は、飲酒・喫煙の習慣はなく、塩分・糖分を控えた食事を心がけていた。
(二) 大阪労働基準局労災医員白井嘉門医師(以下「白井医師」という。)は、昭和五九年一二月一三日、原告は高血圧症の既往症を有し、常時高血圧の状態にあったので、多分に危険因子を抱え、脳内出血をいつ発症してもおかしくない状態にあったとの所見を述べた。
駒井医師は、原告の最低血圧が一一〇ないし一二〇を記録したことが多かったことから、原告は、中等度以上の高血圧であり、本件疾病の発症自体は、原告の既往症(高血圧症)に原因があるとの所見を述べた。
二 業務起因性
1 因果関係
(一) 労基法による災害補償制度の趣旨は、使用者が、労働契約を通じて労働者をその支配下におき、使用従属関係のもとで労務の提供をさせるわけであるから、その過程において、業務に内在ないし随伴する危険性が発現し、被災者に傷病が発生した場合には、使用者は、過失の有無に関わらず、被災労働者の損害を填補するとともに、被災労働者及びその遺族の生活を保障することにあるものと解される。また、労災保険法は、政府を管掌者とし、使用者が負担する保険料を原資として、業務災害に被災した労働者に対し、必要な保険給付を行う労災保険制度を規定するが、労基法八四条で、労災保険法に基づいて保険給付が行われるべき場合には、使用者は、災害補償責任を免れるものと規定することからすると、労災保険制度は、使用者が被災労働者に対して負う労基法上の災害補償責任を担保するための制度であると解される。
そして、災害補償の要件として、労基法では七五条に「業務上負傷し、又は疾病にかかった」と規定し、労災保険法では一条に「業務上の事由により」と規定するほか、何ら特別の要件を規定していないことからすると、業務と傷病との間に業務起因性があるというためには、当該業務により通常傷病等の結果発生の危険性が認められること、すなわち業務と傷病との間に相当因果関係の認められることが必要であり、かつこれで足りると解するのが相当である。
(二) 業務と傷病との間に相当因果関係が認められるためには、まず業務に傷病を招来する危険性が内在ないし随伴しており、当該業務が係る危険性の発現と認めるに足りる内容を有すること、すなわち、当該業務が過重負荷と認められる態様のものであることが必要であると解される。また、本件疾病のような脳血管疾患の発症については、もともと被災労働者に、素因又は基礎疾患等に基づく動脈瘤等の血管病変が存在し、それが何らかの原因によって破綻して発症に至るのが通例であると考えられるところ、右血管病変等は、医学上先天的な奇形等を除けば、加齢や日常生活等がその主要な原因であると考えられており、右血管病変等の直接の原因となるような特有の業務の存在は認められていないこと、また、右血管病変等が破綻して脳内出血等の脳血管疾患が発症することは、右血管病変等が存在する場合には常に発症する可能性があるものであり、右脳血管疾患を発症させる危険を本来的に内在する特有の業務も医学上認められておらず、むしろ複数の原因が競合して発症したと認められる場合が多いことに鑑みれば、単に業務がその脳血管疾患の発症の原因となったことが認められるということだけでは足りないというべきである。
当該業務が過重負荷と認められる態様のものであるか否かを判断するに当たっては、平均的な労働者、すなわち、たとえ何らかの基礎疾患を有しつつも、特に負担を軽減されることなく、通常の勤務に従事することが期待される労働者を基準とすべきであると解される。
この点、被告は、当該業務が過重負荷と認められる態様のものであるか否かを判断するに当たっては、一般の同種労働者を基準とするべきであると主張するが、現在、完全な健康体である労働者はむしろまれで、高血圧やストレス等、何らかの基礎疾患等を有しつつも、特に負担を軽減されることなく、通常の業務に従事せざるを得ない労働者が多いこと、そのような労働者であっても、労働が生活の糧を得るための唯一の手段であるために業務に従事せざるを得ないのが通常であるという労働実態に照らすと、右平均的な労働者を無視して労働者の保護を全うすることはできないので、前述のとおり、当該業務の過重性を判断するに当たっては、平均的な労働者を基準とするべきである。
2 本件業務の過重性
(一) 前記認定の事実によれば、原告は、永山病院の看護課婦長として、永山病院の全看護部門を統括していたが、内科外来、人工透析、第一病棟詰所等の全七科に所属する看護婦への指導、管理は各科の主任看護婦が行っており、各看護婦の配置表原案も各主任看護婦が作成し、婦長は各主任看護婦を通じて間接的に看護婦を統括し、その他各看護婦の時間外労働時間数の集計、看護学生の教育等を担当していたにすぎず、また、原告は、婦長としての管理業務のほかに、手術の介補等を行ったが、その手術数は一か月当たり二件ないし九件であり、右手術のうち、特に介補の負担が大きい全身麻酔使用の手術も一か月当たり一件ないし三件にすぎなかった。
また、原告の所定労働時間数は、一時間の休憩時間を除くと、一日七時間三〇分であり、原告の本件疾病発症六か月前からの労働時間は、一か月当たり、二六一時間三〇分(昭和五九年三月二一日から四月二〇日まで)ないし二二四時間二一分(昭和五九年二月二一日から三月二〇日まで)であったものの、原告は、他の看護婦と異なり、夜勤がなかったこと、一か月当たり四日(昭和五九年二月二一日から三月二〇日まで)ないし七日(昭和五九年四月二一日から五月二〇日まで)の休日を取得したことからすると、長時間労働ではあったが、業務が過重とまではいえない。
また、永山病院は、昭和五八年から昭和五九年にかけて、ベッド数を九八床から二〇六床に倍増し、これに伴う看護婦の増加等が思うようにいかなかったこと、昭和五九年四月ころ、原告が教育を担当した看護学生のうちの三名が進学のため永山病院を退職した関係で原告が永山院長から叱責されたことから、原告は、相応の心労を受けていたものと推認される。しかし、永山病院では、右増床にもかかわらず、看護婦数が基準を下回る等、看護婦数が足りなかったことはなく、また、外来、入院とも、患者数に増減の幅は小さかったので、右増床に伴う原告の業務は、それほど大きな変化はなく、原告にストレスが蓄積したとは認められない。
(二) 原告は、本件疾病発症当日(昭和五九年五月二二日)、通常どおり午前八時過ぎに出勤し、午後一時三〇分ころから全身麻酔を使用した胆嚢摘出手術を外回りとして介補し、出張により手術を中座した永山院長から術後の観察等を徹底するように指示を受け、その申し送りをしたが、いずれも特に日常の勤務と異なるところはない。原告は、右手術中に顔色が悪く、右手術後に、永山病院一階売店付近で男性の入院患者から大声でなじられ、涙を流したりしたので、原告は、身体の調子が万全ではなかったし、右トラブルによりシヨックを受けたものと推認されるが、原告の本件疾病発症当日の業務自体は、日常業務と異なるところはなく、原告が、約六年間婦長として勤務し、日常的に患者や看護婦のトラブル等を処理してきたことに鑑みると、右トラブルの処理が、原告にとってそれほどの負担になったとは考えられない。
(三) この点、(証拠・人証略)の証言によれば、永山病院においては、昭和六〇年六月ころから業務分担の組織が変更され、看護婦を統括する最高責任者である総婦長を頂点として、その下に病棟、透析、外来の三つの部門が設置され、それぞれの責任者として婦長が選任され、それぞれの婦長の下に複数の科が置かれ、その責任者として主任看護婦が選任されていることが認められる。永山病院における総婦長は、本件疾病発症当時、原告が担当した婦長としての業務(本件業務)から手術担当業務を除外した管理業務を担当するが、現総婦長である杉原は、病棟婦長をも兼務している。したがって、杉原が現在担当する業務は、原告の本件業務に比較して、軽いものとはいえない。それにもかかわらず、杉原は、遅くとも大概午後六時半ころには右業務を終えて帰宅しており、自宅での持ち帰りの仕事としては、わずかに勤務表の作成がある程度にすぎず、その他特に問題なく右業務に従事している。
以上の事実からすれば、原告の本件業務は、その後任の杉原の業務との比較においても、過重であるとまではいえない。
2(ママ) 既往症の影響
(一) (証拠・人証略)の証言によれば、次の各事実が認められる。
(1) 高血圧性脳内出血(本件疾病)とは、高血圧が持続することにより、血管に病変が生じ、その結果発症する脳出血である。
血管壁は、一般に、内圧の変動に対してかなり強靱であり、特に動脈壁には厚い平滑筋層(血管中膜)があるため、正常な状態であれば、内圧が上昇しても容易には破綻しない。外力による機械的損傷がなくして発症する脳出血は、脳血管の血管壁に何らかの病的変化があり、正常の血管壁構造が失われ、張力に対して脆弱になっている場合に限り発生する。このように、血管壁が脆弱となる病的変化もしくは構造異常の原因としては、高血圧による脳細動脈の変化(いわゆる血管壊死)、血管奇形、変性、腫瘍、血管代謝異常、中毒性血管変性等があるが、発生頻度としては、高血圧性の脳細動脈変化が原因となることが圧倒的に多い。高血圧が持続した場合、脳内の細動脈の平滑筋層(血管中膜)に変性を生じ、血管壊死の状態となり、右状態の下では、血管壁が構造的に脆弱となり、内圧により小さな動脈瘤(微小動脈瘤)を生じ、極めて破綻しやすい状態になる。このため、生理的な血管変動によっても容易に血管壁が破綻し、脳出血を発症する。このように、高血圧が持続し、これが原因となって血管病変を生じ、その結果発症した脳出血が、高血圧性脳内出血である。
(2) 血圧とは、血流により動脈壁に加えられる単位面積当たりの側圧をいい、心臓の収縮期に最高となり(最高血圧)、拡張期に最低となる(最低血圧)。WHOの専門委員会が、集団調査の統計処理のために策定した高血圧基準(一九五九年)によると、特別の条件を付さずに測定された血圧(随時血圧)を基準とした場合、最高血圧が一三九以下で、かつ最低血圧が八九以下ならば、血圧は正常範囲内であり、最高血圧が一四〇ないし一五九、かつ最低血圧が九〇ないし九四ならば、高血圧が疑わしく、観察を要する境界域であり、最高血圧が一六〇以上又は最低血圧が九五以上ならば、高血圧であるとされる。右の区分で、正常とされた場合の脳卒中の年間発生率が約〇・〇三五パーセント、高血圧とされた場合の脳卒中の年間発生率が約〇・四五六パーセントという統計結果もあり、高血圧であれば、脳血管疾患に罹患する可能性が高くなる。
(二) 前記認定の事実によれば、原告は、昭和五四年三月二四日以降、昭和五八年一二月八日まで、合計二七回の血圧測定のうち、測定値が正常範囲内であったことはなく、高血圧が疑わしい境界域であったのが二回(昭和五五年一月二六日、昭和五五年六月二〇日)のみで、それ以外の二五回は、いずれも高血圧であった。また、原告は、高血圧症の治療のために投薬治療を受けていたが、服用は断続的であって、依然として高血圧の状態が続いていたことに鑑みれば、原告の血圧は十分にコントロールされてはいなかったというべきである。
(三) 以上の事実によれば、原告の発症した本件疾病(高血圧性脳出血)は、高血圧の状態が継続することにより、脳内の細動脈の平滑筋層(血管中膜)に変性を生じて血管壊死の状態となり、血管壁が構造的に脆弱となった場合に極めて発生しやすい疾病であるところ、原告は、昭和五四年三月以降、常時高血圧の状態にあり、昭和五五年二月には高血圧症、心拡大と診断され、薬も処方されたが、服用は断続的で、依然として高血圧の状態が改善されなかったことが認められるのであるから、原告の血管壁は、本件疾病発症時(昭和五九年五月二二日)、長期間にわたる高血圧症により、既に脆弱化した状態にあり、そのため、生理的な血管変動によっても脳出血等の疾病が発生しうる状態、すなわち、いつ本件疾病が発症しても不自然ではない状態にあったというべきである。
したがって、本件疾病は、原告の長期間にわたる高血圧症という基礎疾患を主たる原因として発症したものであるというべきである。
4 発見の遅れ
(一) 原告は、本件疾病を発症後、約一四時間も発見されず、そのために本件疾病が悪化したところ、右発見の遅れは日常生活において通常ありうる程度の発見の遅れとはいえないものであるから、右発見の遅れによって悪化した部分については業務に起因したものであると主張する。
(二) 前記のとおり、労災保険給付の要件としての業務起因性があるというためには、業務と傷病に相当因果関係があることが必要であり、業務と傷病との間に相当因果関係があるというためには、当該業務に傷病を招来する危険性が内在ないし随伴し、当該業務が係る危険性の発現と認めるに足りる内容を有することが必要である。すなわち、本件疾病を発症させた原告の発見が遅れ、そのために悪化した疾病の部分が業務に起因したというためには、原告が業務に従事した場所自体に、発見の遅れの危険性が内在すること、すなわち、永山病院婦長室が、外部との連絡が遮断・隔離された特別な環境下にあり、そのため、婦長室において業務に従事することが、被災労働者の治療機会の喪失をもたらす客観的危険性を有していたことが必要である。
これを本件においてみるに、そもそも婦長が個室の婦長室を与えられ、ここで業務に従事すること自体は一般的なことであり、前記認定の事実によれば、婦長室は、永山病院の二階南西に、病室と事務長室にはさまれた位置に病室を改造して設置されたこと、婦長室と廊下を仕切る扉にはすりガラスがはめ込まれ、扉の上部に、換気用として、回転ガラス窓が設置された構造になっていたこと、現に婦長に相談を持ちかける看護婦や患者、その他職員、セールスマンが婦長室を訪れることがあったことが認められるのであるから、婦長室が外部から隔離・遮断された特別な環境にあったとはいえない。
したがって、原告が婦長室を与えられてここにおいて業務に従事したことが、被災労働者の治療機会の喪失をもたらす客観的危険性を内在していたとは認められない。
5 結論
以上の事実によれば、原告の本件業務は過重負荷であったとはいえないし、原告は、本件疾病発症当時、長期間にわたって高血圧症に罹患していたので、既に血管壁が脆弱化した状態にあり、そのため、いつ本件疾病を発症しても不自然ではない状態にあったというべきであるから、本件業務が本件疾病発症の原因であったということはできないし、原告が与えられた婦長室が外部から隔絶・遮断された特別な環境にあったとはいえないので、原告が本件疾病発症後、約一四時間発見が遅れ、そのために本件疾病が悪化したとしても、これをもって本件疾病に業務起因性があるとはいえない。
三 結論
以上の事実によれば、原告の請求は理由がないので失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中路義彦 裁判官 森鍵一 裁判官長久保尚善は、転補のため、署名押印することができない。裁判長裁判官 中路義彦)